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WANDERER ヴァンダラー


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■ ヴァンダラーってどんな会社?

アウトウニオンを構成した4つの会社のうち、二輪から四輪に転向したのは、
「DKW」とこれから歴史を探る「ヴァンダラー」の2社のみでした。

残念な事に第二次世界大戦の終了と共に無くなってしまったのですが、
1930年頃のドイツでは広く知られていたメーカーだったのです。

”リヒヤルト・アドルフ・イエニケ”と”ヨハン・バプチスト・ヴィンケルホッファー”
という2人が、1885年2月に旧東ドイツのケムニッツに「ケムニッツアー自転車庫」という
英国製自転車の販売・修理会社を設立したのが全ての始まりです。

同年中に自分たちのオリジナル自転車の製造も初め、
翌1886年には22名の従業員を従える会社に成長しています。

1887年には「ケムニッツアー自転車製作所」と社名を改め、
自転車メーカーであることをアピールしながら、三輪車の開発も行っています。

彼らの会社は順調な成長を見せ、1986年には「ヴァンダラー自転車製作所」と改名。
1898年にはフライス盤、工具、備品etcの製造も始ることとなる。

1900年になると各種工作機械の製造はさらに増え、
それと同時に、自転車用補助エンジンの開発も検討がされ始め、
1902年、ヴァンダラー初のモーターサイクル(1.5PSエンジン搭載)が完成しました。

この年同社は、生産を前提としたタイプライターの研究も始め、
そのプロトタイプは2年後の1904年に完成。1903年には自動車の設計も始まり、
設計図に基づいた製作も行っています。

1904年になると、ヴァンダラー初のタイプライター”コンチネンタル”が発売開始。
同時に2.5PSエンジン搭載の磁気点火方式のモーターサイクルの製作も企画された。

前年から進められていた自動車の研究の甲斐あって、とりあえず
ヴァンダラー・モービルというなの処女作が完成しています。
が、それはまだプロトタイプのレベルでしかなかったのです。


■ いつかは自動車市場へ進出したいなぁ。。。

この時期のヴァンダラーは、自転車を核に様々なトライアルをしています。
それは”いつかは自動車市場に進出したい・・・”という思いもあったのですが、
落ち込んだ自転車の売上げを、工作機械の売上げでカバーしようとしたのも事実です。

1909年にヴァンダラーは、事務機器の生産を拡大し、本格的に販売をしています。
が、事務機器もモーターサイクルも、当初の業務である自転車と工作機械の落ち込みを
リカバリーするために開始したという見方が正しい様です。

しかし驚いた事に、その副業的な感覚で始めたモーターサイクルもタイプライターも、
市場では確実にシェアを獲得する事に成功しています。
その事実は、ヴァンダラーの技術が優秀だった事を証明しているのです。

1904年にプロトタイプまで発展していたい自動車事業も同じように、
自転車や工作機械の売上げが低迷した時のリカバリーにと始められたことだったのです。

しかし、息の長い追い風的な好景気により当時のドイツの機械工業は大きく前進し、
その波に乗って「自動車産業に進出したい」と願うのは、ごく自然な成り行きでした。

1906年に、ヴァンダラー・モービルという名称を商標登録した同社は、
いよいよ本格的に自動車産業への進出を決めたのでした。

が、初の量産車が完成するまでに5年の歳月を待つのでした。。。(汗)

1908年「ヴァンダラー製作所、元ヴィンケルホッファー&イエニケ株式会社」に
再び社名を改めて、5階建ての自社ビルをケムニッツ郊外のシェーナウに建設。
事業拡大への積極的な姿勢ををアピールしています。

ツイッカウアー通りに面した本社には自家発電設備を持つ工場も隣接していました。


■ ヴァンダラー初の自動車の名前は”かわいこちゃん”(笑)

1911年、待ちに待ったヴァンダラー初となる四輪自動車が完成、発表されました。
その名も”Typ W1プップヒェン(かわいこちゃん)5/12PS”。

ヴァンダラー初の四輪車は、水冷4気筒OHV、φ62.0×95.0mmの
ボア×ストロークによる1147ccエンジンをフロントに搭載し後輪を駆動する2シーター
でしたが、その名から分かる様にパワーはわずか12PSしかなかったのでした。

本格的な・・・とは言っても、どちらかと言えばサイクル・カーに分類される
モデルだったみたいですが、「最も厳しい専門家の目にも耐え得る設計である」
という高い評価が与えられたのでした。

1912年にプップヒェンは、南北チロル地方を走破する2000kmテストを行い、
高い信頼性と優秀性(山道を楽に登る登坂能力)見せ付けるのでした。

翌年の1913年よりプップヒェンは本格量産を行うのですが、
ヴァンダラーがそれまでに培ってきた工業機械/精密機械のノウハウが生かされ、
ユーザーから沢山の称賛の声が聞こえてくる程のクルマとなったのでした。

プップヒェン5/12PSは、1914年に、φ64.5×100.0mmのボア×ストロークによる
1200ccエンジンを搭載した”Typ W2 5/15PS”というモデルに発展。
ホイルベースが拡大され、3、4シーターのボディも可能としています。

第一次世界大戦が終了しても、5/15PSの生産は続けられ、それまでの間に
W1、W2の発展型であるW3、W4、W8もラインナップに加わりました。

1913年の時点でのヴァンダラーの従業員は、2700名にまで達しています。

ちなみに同年のドイツ自動車産業全体の労働者数は26572名であって、
その10%を占めていたヴァンダラーは、確実に重要な位置にいた事が分かります。

1915年、ヴァンダラーは数千台のモーターサイクルと自転車を
ドイツ陸軍に納入します。プップヒェンもその数の中に入っていて
軍用としても充分に活用できるクルマ、だと言う事を証明したのでした。

当時の軍の将校たちは、
”オートバイの代わりになり、オートバイよりも小回りの効く車”
という高い評価をプップヒェンに与えた程でした。

こうした自動車の成功に負けず劣らず、事務機器部門も大きく前進しています。
実験的ではありましたが、計算機(足し算と引き算のみ)が開発されたのです!
この計算機は1916年に”コンチネンタル”の名称で販売されています。

世の中の状況は、第一次世界大戦の勃発により見通しは暗く、
モーターサイクルや自動車を生産するための原材料の不足が発生します。

が、ヴァンダラーの技術陣は、特にゴムの原料不足の対策としてリムの回りに
コイルスプリングを巻き付けた戦時型ホイールを考案して窮地をするなどの、
素晴らしい健闘を見せるのでした。


■ 他の同業者を横目に、株式配当12%を行った好調ぶり!

1918年に第一次世界大戦が終了すると、
全ての生産設備を元(戦争前)の状態に戻さなければいけませんでしたが、
ヴァンダラーの生産体制変換は比較的スムーズに進みました。

そして、1920年からしばらくの間、かなりの事業の発展が可能となりました。

4気筒OHV1.3L、20PSエンジンを搭載したTyp W8、5/20PSが登場したのも
1920年でした。この5/20PSには、1.5L、40PSエンジンが搭載された
スポーツ・モデルも用意されたのでした。

1924年生産を開始したTyp W9、6/24PSは、同じく4気筒OHVでしたが
パワーは24PS/2800r.p.mへとアップされ、4段トランスミッションが組み合わされた
ヴァンダラー初のモデルとなったのです。

1926年に登場したTyp W10/1、6/30PSは、本格的なセダンモデルでした。
エンジンは4気筒OHVの1.6Lですが、排気量を1.9Lに拡大した
Typ W10/2、8/40PSも生産されています。

このW10/2、8/40PSは、Typ W10/4というモデルに発展しており、
1930年から1932年にかけて生産され、好評を得ています。

ヴァンダラーのW10、それに続くW11は、ベルトコンベアー方式による
本格的な量産体制によって誕生したモデルとなった。

小型車と中型車の中間に位置するW10とW11を武器に、攻勢にでたのです。

しかし、これまた思いがけない程のヒット作となり、
他の自動車メーカーが低迷を続けていたのにもかかわらず、
ヴァンダラーだけは12%もの株式配当を行っているのです!

株式投資をやられている方ならお分かりですが、12%の配当っていったらカナリ大きいですよ!
今で言うなら、勝ち組のトヨ○自動車みたいな感じでしょうか(笑)?


■ 社内の合い言葉、、、それは”効率”!

1929年、ヴァンダラーはスイスの伝統ある自動車メーカーの「マルチニ」で
6気筒エンジンのライセンス生産を行い、W11というモデルを手に入れました。

ヴァンダラー初の6気筒エンジンは、W10/1と同じサイズのボアを持つOHV、
排気量はφ72.0×104.0mmのボア/ストロークによる2540ccで
50PS/3200r.p.mというパワーを発揮しました。

このW11モデルには、排気量を2995ccに拡大された
スポーツ・モデルもラインナップに加わっていました。
それはヴァンダラー初の本格的な中型車となったのです。

当時のヴァンダラーは、エンジンのスケールアップをした際には
ストロークの延長という手法を採用していました。

シリンダー・ブロックやピストンの砂型はそのままで、
クランクシャフトのみを新規に作成すれば済む方法なのです。

他のほとんどのメーカーが旧式なサイド・バルブ・エンジンを搭載していたのに対し
ヴァンダラーは1911年に最初の四輪車を生産した時点から、
OHVエンジンを採用し続けたメーカでもあった。

優れた重量/出力比と高回転が要求されるモーターサイクル用エンジンに
経験豊かだったヴァンダラーならではの特徴です。

一方、自動車以外の部門も当時は手掛けており、1916年に発表された
コンチネンタル計算機は順調な発展を遂げ、1923年には10桁、15桁の計算機の生産が
1925年には、工作機器部門で強力なネジ・フライス盤の生産が始められています。

この時期のヴァンダラー社の合い言葉は”効率”!
組立てラインに製造方法の監視セクションが設置され、
効率の良い生産が徹底して行われるようになったのです。

1925年には、ドイツ初のベルトコンベアーによる自転車の生産が始まった他、
D型フライス盤の設計を元にして各種フライス盤の開発も行われています。

1927年になり、モーターサイクルの売上げが下がり始めると、
それまでの重量級から通行税免除が適用される200ccクラスが主流となります。

また、足し算と引き算の出来る15桁の計算機に累算機構が付くようになりました。
この技術発展は、本格的な計算機に向けての重要な第一歩となったのです。

1929年、2枚の翼をモティーフとしたヴァンダラーのエンブレムが登録されます。
これ以降のヴァンダラー車のフロント・グリルには、
2枚翼のW型エンブレムが高々と掲げられる事となります。

1930年、ヴァンダラーのどの部門も苦しい状況の中で発売された
”ウルカン”というモデルは、自動車部門の救世主となったのです。

工作機械部門では、半自動式正面フライス盤と、
油圧主軸駆動式の縦型フライス盤の開発にも成功しています。

ヴァンダラーの技術は自動車開発のみならず、
多方面で活躍していた事が分かります。

しかし、自動車と計算機という組み合わせは以外ですよね(笑)。


■ あのポルシェ博士のプライベートカーとして愛用された○○!

1929年ヴァンダラーは、変動する市場と経済を睨みながら、
自動車生産設備の一部と設計をチェコの武器メーカー”F.ヤナチェック”に
売却するという実に柔軟な対応を採っています

ヤナチェックではJawaという名でヴァンダラーのモデルを生産・販売しました。

このような対応を検討し実行したことによって、大恐慌のド真ん中であっても
株式配当を支払う事のできた数少ないメーカーとなり得たのです。

しかし、1926年以降の収益は、実は自動車部門以外からもたらされたモノで、
こうした状況を打ち破るために、収益性の低かった自動車生産ラインが大幅に見直され、
日産数を25台にまで高める努力を行ったのでした。

1931年にヴァンダラーは、発足したばかりだったあの”ポルシェ”に
2L級中型乗用車の設計を依頼していたのです!

世間は狭いものですね(笑)。

中型車市場のラインナップを強化し、さらなる飛躍を願った、
ヴァンダラーの新たな方向性を示しています。

ポルシェ自動車機構設計事務所の設計コード”タイプ7”が付けられ完成したモデル
Typ W15は、6気筒1.7LのOHVで、ブロックに軽合金を採用するなど
いくつかの新技術搭載され、すぐに量産されて市場に送り込まれています。

まぁ、ポルシェの技術を駆使すれば、量産も簡単だったのでしょう!

ポルシェはこのタイプ7に続いて、タイプ8と呼ばれた
スーパーチャージャー付き直列8気筒3250ccの流線型クーペTyp W17を完成させ、
高級車をもラインアップに、、、というヴァンダラーの要望に応えたのでした。

スーパーチャージャー付き直列8気筒3250cc、、、って凄いパワーですよね(ドキドキ)!
今の時代に出しても間違いなく好評を得ると思います。マジで乗りたい(笑)。

が、1932年にヴァンダラーはアウトウニオンの一員となることが決定したため、
残念な事に量産には至らなかったのです。

理由は、アウトウニオンを構成する4社(アウディ・ホルヒ・DKW・ヴァンダラー)は
それぞれに担当するジャンルを区別しており、Typ W17のような高級車レベルは
ホルヒが担当することになったからです。

業務拡大に伴った、業務見直しですね。
各社の得意分野を認め合い、一番得意とするジャンルを担当する事によって、
無駄な時間を省き、高品質で安価なものを提供できたのではないかと思います。

なかなか他人の良いところを認められないのですが、(嫁さんの事は特に(笑))
ライバル同士が手を取り合ったアウトウニオンは、かなり強大なモノになったのでした。

なんと、ヴァンダラーW17のプロトタイプがポルシェ博士のプライベート・カーとして
長く愛用されていたという記録が残されているのです!


あのポルシェを納得させるようなクルマ、、、乗ってみたい(ワクワク)!

Typ W15は1938年まで販売が続けられたのですが、このW15プロジェクトが発足した
1931年頃のヴァンダラーは、自動車の生産削減を強いられ、かなりの損失を出しています。

自転車とモーターサイクルの生産もよろしく無く、唯一、満足できるレベルで
運営できていたのは工作機械や事務機器の部門だったのです。

そして、その原因としてW11の発売が失敗だったということが明らかになったのです。

それは、中型車クラスが激戦区と化し、そこに新規参入を果たしたヴァンダラーの投資は、
クルマが好評を得たにもかかわらす、重荷となってしまったのでした。

今まで健全な経営を誇ってきたヴァンダラーは、突如!赤字に転落してしまったのです、、、


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